「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり
ひとたび生を受け 滅せぬもののあるべきか」
7月16日の出陣式では、この言葉が鎌倉の山野にこだましました。さて、この意味をよく聞かれるんですが、下記に解説。
1184年、源平の戦いの一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめる。
平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった武将平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす。退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられない。敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいた。
そこに源氏方の武将熊谷次郎 平直実(熊谷直実)が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎打を挑む。敦盛はこれに受けあわなかったが、直実は将同士の一騎打ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫した。多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎打ちに応じた。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎打ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。
直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。名を尋ねて初めて、数え16歳の平敦盛であると知る。直実の同じく16歳の子熊谷小次郎 平直家(熊谷直家)は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらった。これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ。」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。
一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになる。
直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、栄花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天(信長公記では「下天」)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで演じたと伝えられている。 「人間(じんかん)五十年」は、人間の定命は50年であるとの意。 「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされる。「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。人間の命は化天あるいは下天の住人に比べれば儚いものであるとしている。
特に、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の三河侵攻を聞き、清洲城の信長は、まず「敦盛」のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという信長公記の伝記が有名である。
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